Blue Players Marcus 「sacrificio(一生懸命)」
1997年7月にマルクスは初めて来日した。
JFLに所属する本田技研に入団し、1999年にJFL得点王に輝いた。そのシーズンを最後に、本田技研がプロ選手を保有しない方針を決定したことからブラジルへ帰国したが、2002年にアルビレックス新潟に入団。2年連続でJ2得点王となり、新潟のJ1昇格に大きく貢献した。
そして、2004年に移籍した川崎でJ1昇格請負人として活躍し、「日本に来た時からずっとJ1でプレイしたかった」との希望を叶えた。
左第5中足骨骨折を負って一時は戦列を離れたが、後期の10戦では5ゴールを記録。プレイスキックを中心に多くのチャンスを演出し、チームの快進撃を支えている。
J1でも通用することが証明されたプレイスタイルは、知力に溢れている。
いつものように胸の前で十字を切り、右足からタッチラインを越えると、マルクスは敵にとって憎たらしい存在となる。
地元札幌のテレビ局は、その象徴となる行為を理解出来なかった。
97年、本田技研戦のために浜松へ遠征したコンサドーレ札幌のゴールキーパー森敦彦は、ボールを手に持っていた。不用意だった。
マルクスはヘッドでボールをさらい、そのままフィニッシュを容易に成功させた。彼にとってフットボールは「勝利を求められるもの」だ。隙を逃すはずがなかった。
また、先日の名古屋遠征における先制ゴールは、実に知的だった。
我那覇がポストプレイでクサビとなり、中村が右サイド前方へオーバーラップしたことで敵の注意がボールサイドへ向いた「絵」を巨視的に捉え、ファーサイドへ走り込み、長橋のアーリークロスを確実にヘッドで叩いてみせた。キックオフ1分で見せた高い集中力は、圧巻だった。
「テレビで見るたびに心が痛むんだ」
新潟県中越地震の被害にあった新潟に向け、マルクスはフロンターレオフィシャルサイトにメッセージを掲載した。
未だに新潟からファンレターが送られてくる。今シーズンの開幕戦の舞台となった日立台には、新潟のユニフォームを着た老夫婦が足を運んでいた。ビッグスワンでは、新潟ファンの呼び掛けに手を振った。家族の写真を常に持ち歩き、片言の日本語で日本人選手との会話も欠かさない。
ある日、トレーニングを始めるために少し慌ててメイングラウンドへ向かっていた。最も遅くクラブハウスから出てきたマルクスは、ぎりぎり遅刻せずに済んだ会社員のような表情で、小走りになっていた。
ふたりの女性ファンの目前を横切った。麻生グラウンドは、メイングラウンドと観戦ベンチに行く階段が途中までひとつに繋がっている。あまりのノーガードな作りに戸惑い、「この先に行って良いのかな?」と首を傾げるファンに、たまたま通りかかった筆者は「全然大丈夫ですよ」と声をかけた。すると、マルクスはちらっと振り向き、笑顔を返してきた。
普段は温厚に振る舞い、チームのためにゴールを重ねてきたことで、新潟と川崎で彼は愛されている。
マルクスはチームのために全力でプレイすることを常に公言し、実行する。
対新潟戦のマッチデイプログラムでは、今後の戦いにおいて、「個人的にも最高のパフォーマンスをしてチームに貢献したい」と述べ、「精一杯のプレイをするのでスタジアムで応援してほしい」とリクエストした。
「メイヤ(トップ下)が1番のお気に入り」と話す通り、アタックを自らコントロールし、ふとフォワードラインに飛び出し、「集中して落ち着けば、打つべきコースが見える」との言葉通りにゴールを決めていく。
J2で得点王になった際に貰った記念の盾は、日本とブラジルの家に飾ってある。これを見てモチベーションを上げ、ゴールのためにトレーニングに心して取り組むのだとマルクスは言う。
「サポーターが待っているのはゴールだと思う」
「sacrificio」(ポルトガル語で一生懸命の意)なゼッケン11によって、等々力のゴールマウスは揺れ続ける。
Text by H.Nishikawa.(Wednesday, 19 October, 2005, 8:30)
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